2015年5月21日木曜日

◎ 生まれ変わりの理論 新約聖書 よりの仮説

また『生まれ変わり』について。

今のキリスト教では『生まれ変わり』とか『転生』の教義はない、とされているようです。 しかし、聖書の中をよく読むと、そうでもなさそうだと思われる部分が、いくつか目につくのです。 そして、この部分はいつも引用しますが、結構、重要だと思います。 つまり、コリント人への第一の手紙15章51節には、『眠ることになるのではなく変えられる』と書かれています。次の『終わりのラッパとともに』という文章から、これは『死の瞬間』であることがわかります。そうでなければ、論理矛盾を生じるからです。

◎ コリント人への第一の手紙 15-51

5 0 兄弟たちよ 。私はこのことを言っておきます 。血肉のからだは神の国を相続できません 。朽ちるものは 、朽ちないものを相続できません 。 5 1 聞きなさい 。私はあなたがたに奥義を告げましょう 。私たちはみな 、眠ることになるのではなく変えられるのです 。 5 2 終わりのラッパとともに 、たちまち 、一瞬のうちにです 。ラッパが鳴ると 、死者は朽ちないものによみがえり 、私たちは変えられるのです 。5 3 朽ちるものは 、必ず朽ちないものを着なければならず 、死ぬものは 、必ず不死を着なければならないからです 。

CORINTHIANS Chapter 15
50. Now this I say, brethren, that flesh and blood cannot inherit the kingdom of God; neither doth corruption inherit incorruption. 51. Behold, I shew you a mystery; We shall not all sleep, but we shall all be changed, 52. In a moment, in the twinkling of an eye, at the last trump: for the trumpet shall sound, and the dead shall be raised incorruptible, and we shall be changed. 53. For this corruptible must put on incorruption, and this mortal must put on immortality.
つまり、人が死んでから、かなりの時間が経過してから『終わりのラッパ』が鳴っても、その間に死体が埋葬されて朽ち果てたり、焼却されて骨となり骨壷に収められてお墓に収納されて何年も経過している、などと言う事ではないわけです。 また、その前に『眠る事になるのではなく』という文章がありますから、この話は死の直後であるはずです。そして、ここには『奥義を告げましょう』と書かれています。 (それで、死者は眠っているのではなく、単に死んでるだけだ、という反論も意味がないと考えます)

◎ 死と復活の奥義

つまり、ここでは、『奥義』として、特別に真実が述べられている、と考えるべきです。 それで、『51 死の瞬間に変えられる』、『52 一瞬のうちに』という論理が正解だとすると、どう変えられるのかが、次に書かれています。 なんと、『52 死者は朽ちないものによみがえり』とあるので、これは『霊体によみがえる』ことを意味しています。 さらに、次の文では、『53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならない』と書かれています。このように、肉体と霊体の一体化は『〜しなければならならない(must)』で記述されているのです。
さて、この部分以前に、霊体と肉体の説明があります。つまり、
肉体 => 死ぬもの、朽ちるもの
霊体 => 死なないもの、不死、朽ちないもの

という対比が述べられています。

▪️コリント第一15章42節より

『4 2 死者の復活もこれと同じです 。朽ちるもので蒔かれ 、朽ちないものによみがえらされ 、 4 3 卑しいもので蒔かれ 、栄光あるものによみがえらされ 、弱いもので蒔かれ 、強いものによみがえらされ 、 4 4 血肉のからだで蒔かれ 、 御霊に属するからだによみがえらされるのです 。血肉のからだがあるのですから 、御霊のからだもあるのです 。 4 5 聖書に 「最初の人アダムは生きた者となった 」と書いてありますが 、最後のアダムは 、生かす御霊となりました 。 4 6最初にあったのは血肉のものであり 、御霊のものではありません 。御霊のものはあとに来るのです 。 4 7 第一の人は地から出て 、土で造られた者ですが 、第二の人は天から出た者です。』
上記には、さらに様々な対比が述べられていますが、

肉体 => 卑しいもの(精子のことか?)、弱いもの(同左)、血肉の体、最初のアダム、最初にあったもの、第一の人(地から出た)
霊体 => 栄光あるもの(立派な成人?)、強いもの(同左)、御霊の属する体、最後のアダム(生かす御霊)、御霊のもの、第二の人(天から出た)
ということでしょうか。
『4 8 土で造られた者はみな 、この土で造られた者に似ており 、天からの者はみな 、この天から出た者に似ているのです 。 4 9 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように 、 5 0 天上のかたちをも持つのです 。』
次も、肉体と霊体の対比が述べられていますが、それは、
肉体 => 土で造られたもの、
霊体 => 天から出たもの、
ということです。 しかし、次に重要な事が書かれています。
『 4 9 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように 、 5 0 天上のかたちをも持つのです 。』
これは、人が『肉体』と共に『霊体』を持っている事を意味しています。しかも、全員が持っている、と言っているようです。

◎ 肉体と霊体は常に一体となっている、のか?

それで、53 を言い換えてみると、 『朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず』は、 『肉体は必ず霊体を着なければならず』となり、
『死ぬものは、必ず不死を着なければならない』は、 『肉体は、必ず霊体を着なければならない』
というように、ここは同じことを別の言い方で述べているだけですが、この記述から、死後も『肉体』と『霊体』が一体化する事を述べています。 つまり、人が生きているためには、肉体とそれを生かす御霊が一体となっている、ことが必要だと述べているのではないでしょうか。

◎ 新たな肉体とは何か?

そうなると、『死んだ後にまた肉体を着る』ということは、どういうことでしょうか。 すでに死んだのだから、死体になった肉体と霊体がまた一緒になると、生き返ってしまうのではないでしょうか。 だから、死後に着る肉体は、死体となった肉体とはまた別のものでしょう。それはいったい何なのでしょうか。

ここで、私たちが思い返す事は、アダムが土から作られた肉体であったが、それに『生かす御霊がはいり』『アダムは生きたものとなった』(45-47)という部分です。 つまり、新たな肉体は、土から造られたもので、おニューなもの(他の霊体が宿っていないで肉体)であれば良いわけです。
私たちは、地上に生まれてきた時に、どのような状態であったのかを考えると、それは母親のお腹の中にいる胎児だと気がつきます。 結局、世界中に生きている人の誰一人として、母親のお腹から生まれて来なかった人はいない、と断言できるはずです。言い換えると、人は母親の胎内から例外なく生まれ出てきていたし、今後もそれが行われるだろう事が容易に想定できます。
人は単なる生死と卵子の結合したものから、複雑な構造を持つ人体が形成されて、この世に生まれ出てくるのです。 この事は奇跡的なことでもありますが、その物質的な肉体の変化や成長の詳細は、現代科学が次第に明らかにしてきました。そして、今後は霊体の解明へと進むかもしれません。
以上、くどくどと述べてきましたが、上記の生まれ変わりの理論が独断と偏見である可能性もありますので、各自で十分に、納得の行くまでご確認くだされば幸いです。 植木淳一

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